人の角煮の受難

Ordeals Of Hito No Kakuni

現状報告+それに託けた自分語り

 

 

 

ごきげんよう、人の角煮です。

 

 

 

この挨拶でブログを書き始めるようになってからもう4年の月日が経ち、当時の自分の青臭さに絶叫したいような心持ちですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

 


ここ最近、自分の中で目まぐるしいほどの変化が起こっていて、Twitterやインスタグラム等のSNSもログアウトしてしまったので、連絡がつかないとか、そういったご迷惑をおかけしていたらすみません。

 

 


仲良くしていただいているフォロワーのみなさんに何も説明できていないのが気がかりだったので、今回はブログという形で現状報告をさせていただこうと思います。

 

 

 


☆現状報告・今北産業版☆

ODと大量飲酒で(おそらく)死にかける

脳みそにショックが走る

鬱・操、共に改善

 

 

 

意味わからんかも。ふざけたこと抜かすなとか急に治るなんておかしいとか思うかもしれませんが、わたしも同じ気持ちです。ただ、事実ではあります。ここからは記録も兼ねて詳しく説明しながら冗長な自分語りをしようと思います。最近自覚したけど、わたしって自分語り大好きすぎる。

 

 

 


☆現状報告・冗長版☆

2024年1月26日、わたしは死んだ、と言っても過言ではない。それまでの約1ヵ月間、ほぼ毎日起きている時間は、ODと飲酒に費やしていた。意識を曖昧にしないと心が保てなかった。その日、弱った精神にとどめを刺すような出来事があり、わたしはいつものODよりやや多く薬を飲み、酒を勢いよく胃に流し込み続けた。しばらくして、意識が途切れる。

 

 

 

ふと周りを見ると、どうやらわたしは布団で寝ようとしていたようだった。ODしてから大分時間が経ち、血中濃度はピークを過ぎていたように思う。朦朧とした頭でぐるぐる考え、とりあえず横になろうと、上手く操れない足をのろのろと折り曲げて布団に膝立ちになった瞬間のことである。バチンッとかそんな感じの衝撃が頭の中に走り(痛みや感覚はなく、あくまでイメージ)、毛細血管の隅々まで血液が滑るように染み渡った気がした。わたしはしばらく、全く状況が掴めず呆然としていた。そして、落ち着きを取り戻したとき、混乱は恐怖に変わった。わたしの脳みそ、おかしくなっちゃったかもしれない……。

 

 

 

わたしはバッドに入った。スマホや壁からわたしの悪口が聞こえてくる。電話がかかってきたかと思えば、あなたは狙われています、みたいなことを言われたり。虫の羽音が耳元でするのが一番耐えられず、聞こえる度に絶叫した。半狂乱のまま眠剤をぶち込み、明日には収まるから大丈夫、と何度も何度も言い聞かせて、震えながら無理やり寝た。地獄だった。

 

 

 

起きると、部屋は明るかった。周りを見回しても特段変わったところもなく、耳をすませても悪口は聞こえない。よかった、収まったんだ、と胸を撫で下ろすわたしの耳に、虫の羽音がした。ざっと血の気が引いたが、なんとなく違和感を抱いてよく聞くと、それは羽音ではなくバイクのエンジン音だった。そういえば今日は外を歩いている人がたくさんいるみたいだが何かあるのだろうか、と思ってベランダから外を覗いても、いつも通りちらほら歩行者が通るだけ。首を傾げながら部屋に戻る。足の指に何か挟まっている気がして指の間を念入りに調べても、何もない。神経が損傷したのかとも思ったが、いろいろ検索してよく考えた結果、マヌケなことに中指と薬指がくっついて触れているだけだった。昨日今日に突然くっついたとは考えにくい。ということは、今までくっついていることに気が付いていなかったということか。バイクのエンジン音も、歩行者の話し声も、これほどクリアに聞こえたことは今までにない。鮮明な五感に戸惑う。離脱による感覚過敏とは、どうも質が違う気がした。曇った窓ガラスを拭いたときのような、度が合う眼鏡をかけたときのような……。

 

 

 

変化があったのは五感だけではない。今まで周りにかけてきた迷惑の重大さと、それを我慢して接してくれる人の優しさにやっと気付き、後悔でむせび泣いた。いや、気付けているかどうかはあまり自信がないが、今まで気付けていなかったから気付きたい、みたいな欲が芽生えたのである。五感が世界に向いたのと同時に、心も外にひらいた。自分史上最大のコペルニクス的転回が起こった瞬間だと思っている。

 

 

 

以前ブログに書いた、"存在する恐怖"発作を何年かぶりに起こしたのもこの後だった。

hitonokakuni.hatenablog.com

とてつもない不安で居てもたってもいられなくなる感覚は決して気持ちのいいものではないが、全身で世界を畏れていた頃の自分を取り戻した気がして、少し安心した。

 

 

 

2月13日の通院で、主治医にこの変化について聞いた。自分でどれだけ調べても納得できるような情報が得られず、不安だったからだ。

主治医の見解は、わたしがしたODや飲酒がショック療法のような働きをしたのではないかというものだった。ショック療法というと、医療機関で治療法として確立している電気けいれん療法(ECT)が代表的だが、主治医によると、重度のうつ病患者が命を脅かすほどの肺炎に罹り、肺炎が完治したあと、抑うつ状態も改善していた、というような例も見たことがあるらしい。とりあえず電気けいれん療法のリンクを貼ります。

ja.wikipedia.org

命の危機が差し迫ると、脳みそがリセットされるようなことがある。それがどうやらわたしの身に起こったらしいが、正直今でも半信半疑だ。それでも五感の鮮明さや、世界に向かおうとする心持ちはあのときから継続していて、不安時に飲む頓服も部屋にゴキが出たとき以外服用していない(ゴキってマジで嫌)。以下、どうしてわたしは生きづらかったのか、という考察を記す。

 

 

 

わたしはASDだ。以前から診断はおりていたが、それを本質的に自覚したのはそれこそ雷のような衝撃のあとである。

子供の頃から自分のこだわりだけを優先して生きてきた。また、両親共に発達障害の傾向が強いので、父、母のこだわりと、わたしのこだわりがぶつかることが頻繁にあった。

当時は自分のこだわりを押し通すことに全力を注いでいた。こだわりを曲げることに計り知れない苦痛を感じていたからだ。

しかし、ただ押し通したい気持ちだけで親のこだわりを突破することは難しかった。親も親で、こだわりを曲げることが嫌だったため、お互い全力で戦うほかなかったのである。

わたしは考えた。理論で勝つしかない、と。

もともと読書が大好きで本を読みまくっていたわたしは更に本を読みまくり、誰にも反論を許さない論理立てをして相手を論破し、自分のこだわりというものに従わせるようになった(この論法は今思えば幼稚でしかないが)。当時のわたしの生存戦略である。ここから、知らず知らずのうちにうつ病という芽が芽生え、わたしの知らないうちに大きく育っていったのだと今は思う。

 

 

 

人はこうであるべきだ、こうでない人は間違っている。人を言いくるめるのと同時に、そのようなこだわり、価値基準が自分に染み付いていった。自分で決めたシステムに従って行動したい、一度決めたことを変えるのがしんどい、そのようなASDによく見られる性質がどんどん拍車をかけていって、いつの間にかわたしの感情は、こうでないわたしは間違っている、存在していてはいけない、というような形をとるようになっていた。

システム構築を大事にするASDと、感情面で大きく左右される精神疾患は、最早相性抜群といっていいほど最悪に干渉し合い、どつぼに嵌って奈落へ堕ちていくほかなかった。

対人関係でも度々問題を起こした。自分の不快という気持ちを、どうにかして正当化して普遍的に間違いだということにしないと、自分の気持ちを許せなかった。そのせいで、たくさんの人を人格否定し、傷つけた。それは嫌だからやめて!とか、それで済む話を、論理で武装して無意味にオーバーキルするようなことでしか、自分を肯定できなかったのだ。

 

 

 

次第にわたしはうつを身を守る鎧として纏うようになった。自分はこういうことができないけど、できないのはうつ病のせいだから仕方がない、というような心の守り方を覚えた。しかしそれは、うつ病でない生身の自分を認める術を失うことでもあった。うつ病でなければわたしはわたしのことを許せない。辛ければ辛いほどできない自分を許せる。だから誰よりも辛くなければいけない。でも辛いのは耐えられない。

 

 

 

塞いだ心では、助けを求めることを選べなかった。当時(といってもほんの数ヵ月前まで)は自分がどうしてこんなに苦しいのかわからず、考える気力もなかったため、自力で泥沼から這い上がることもできなかった。わたしが選び取ったはずの苦痛はいつの間にか制御できないほど大きな希死念慮に変わり、わたしの人生の前に横たわるようになった。OD、飲酒、自殺未遂。それらを繰り返しながら希死念慮を誤魔化し、外界から目を逸らして自分の殻に籠っていく。世界との繋がりが一つまた一つとぷつぷつ途切れていって、ああもう本当に終わりかもな、と澱んだ頭で考えていた矢先に、いかずちがわたしを貫いたのである。

 

 

 

今は、ベランダで空を眺めながらこれを書いている。風に揺れる電線や、遠くで子供がはしゃぐ声、春の兆しを予感させるようなあたたかさを含んだ風を全身で感じながら。うそみたいに穏やかな気持ちだ。こんな日が来るなんて、思いもしなかった。

わたしを覆っていた分厚い殻は綻びはじめた。そのほつれをよく見て少しずつほどいていく。そういったことを最近はやっている。

 

 

 

気付いたことがあって、わたしの生きづらさはほとんど発達障害的な特性によるものだったということだ。例えば、今まで風呂になかなか入れないのは抑うつがひどいからだと思っていたが、抑うつが収まった今でも入るのが難しい。どうしてか考えて、そういえば子供の頃から水と湯気が無理すぎて何度も発狂していたことを思い出す。わたしにとって風呂は苦手な要素が多いらしい。だから入れない。こういった答え合わせをここ1ヵ月の間数え切れないほどしてきて、自分の形がはっきりしていくのが少したのしかったりする。

 

 

 

抑うつが顔を出さなくなって、発達障害の部分が露わになったことで、思い悩むことやフラッシュバックで苦しむことも増えた。

やらなければいけないことと自分のこだわりが反発し合ったときの混乱とか、あのときのわたしの言い方マジで最悪消えたい絶叫とか、他にもたくさん。

精神疾患に守られて生きてきた、とも言えるかもしれない。わたしがどれだけダメでも言い訳ができた。わたし自身を否定されて心が壊れるのを防げた。

むき出しの心を無防備に晒すことは、生身の自分を見られるということで、すごくおそろしい。誰かに傷つけられたり、誰かを傷つけたり、そういう覚悟を持つという覚悟を決めるのが怖くて、やっぱり腰が引けてしまう。それでも、わたしの心が世界に向かってひらいたのだから、もっといろいろなものを見物して回りたい。わたしは今は地球に観光しに来た宇宙人のようなものだけど、いつかは、地球に住み着いて暮らしている宇宙人になりたい。いつか、世界の中にわたしの居場所を見つけられたら、これほど嬉しいことはない。

 

 

 

 


最後に、ここまで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。わたし、今まで、みんなの幸せを願っておきながら、その実みんなの幸せを願う自分が大切だったのかもしれなくて、本当にごめんなさい。でも今は、そのときとはまた違った自分でみんなの幸せを祈っています。野暮だしだからなんだって感じだしちょっと上手く言えないのですが、わたしのこの文章や、他の何かに、あなたが進みたい方向へ進めるきっかけみたいなものが混ざっていたらいいなと、心から思います。

 

 

 

それでは。

ごきげんよう、人の角煮でした。

2023/05/11

アイドルになりたかった。

親に認められない自分を誰かに肯定してもらいたかった。キラキラしたステージの上で、汗を飛ばしながらパフォーマンスをするわたしを、誰でもいいから応援してほしかった。2015年、鳥居坂46(欅坂46)のオーディションが始まって、わたしは自分のリスカ痕だらけの左腕を抱きしめながら、ただ泣きじゃくることしかできなかった。こんな腕じゃオーディションに応募できない、そもそもこんな自分がオーディションに合格するわけがない、そんな事実がわたしから夢を奪い去っていった。選ばれるものと選ばれざるもの、その選別が理不尽に、けれど圧倒的に正しく、わたしの心を蹂躙した。

それでもやはりわたしは、上手く生きていけないことを、左腕の傷跡のせいにすることでなんとか自我を保っていた。これが綺麗になれば何もかもが好転する、そう思っていた。傷跡治療で有名な東京の病院を予約して、3時間ほどかけて病院に診察を受けに行った。この傷跡は一生消えない、レーザーでも上手く消すことは難しいでしょう。それが医者の答えだった。

絶望した。深く深く絶望した。絶望したままわたし、21歳になってしまった。今年でもう22歳だ。アイドルのオーディションも、もう応募できない歳になってしまった。わたしはきっと、自分のことを誰かに認めてもらうことで、自分の存在を赦してもらうことで、自分自身が自分のことを好きになりたかったんだと思う。アイドルという夢から遠のいた今、アイドルになりたかったかつての自分がとても輝かしいものに感じる。Twitterを始めたばかりで一人称をわたくしで統一していた頃の自分のことも、今は大切にできる気がしている。どれもこれも色あせてゆくけれど。あれだけ心を苦しめたり心のままに走ったあのときの思い出の鮮度も忘れて、そうやって人は人生をなんとなく生きていくのでしょう。前へ1歩踏み出すには、忘れることも必要だけれど、それでもわたしはあのときの激情を大事に大事に守っていきたいから、いつか忘れてしまうのならせめて、ここに書き記しておこうと思う。忘れ去られた自分も、今ここにいる自分も、この先の未来の自分も、きっと全部が本当の自分だから。

 

存在への恐怖、そこから生じた疑念

初めて発狂したのは5歳のときだった。お風呂から上がり、ソファに座って、濡れた髪をタオルで絞りながらなんとなく足元を見ていた。お風呂場から聞こえてくる母親と幼い妹の声がだんだんぼんやりしてくる。視線は右足の親指に集中し視界はビネットがかかったように外側からどんどん薄暗くなっていく。突然意識が親指に吸い込まれる感覚がして反射的に絶叫した。自分の声で我に返る。心臓はバクバクと脈打ち、背中はじっとり汗ばんでいる。いまだかつて体験したことのない本能的な恐怖に怯え、身体が震えた。叫び声を聞いて駆けつけた母親の姿を見るなり堰を切ったように泣きじゃくった。心配する母親に縋りながらわたくしは言った。「死ぬのが怖い!」

 

 

 

ごきげんよう、人の角煮です。冬ですね(挨拶が下手)

かっこいい書き出しを目指してみましたがどうですか?しゃらくせ〜と思っている方もいるでしょう。わたくしもそう思います。今日はわたくしが幼い頃から現在まで抱えている、そして死ぬまで抱え続けるであろう"存在への恐怖"について書き記したいなと思っています。ツイッターに敢えて書いていないこともこの機会に吐き出してしまう予定です。反応が怖いですが、いざ、書かん!

 

 

 

咄嗟にでた「死ぬのが怖い」というわたくしの言葉に、母親は「そんなのまだまだ先でしょ」と言って、まともに取り合ってくれなかった。その日からわたくしは度々発狂するようになった。何度も何度も叫び、泣き喚いた。両親は次第にわたくしを心配しなくなり、うるさいと怒鳴ったり、放置するようになった。独りぼっちで得体の知れない恐怖と戦うのはあまりに辛い。しかし発狂を繰り返すうちに、恐怖の輪郭が薄ぼんやりと見えてきた。これは、死への恐怖ではない!

 

 

 

読書が好きだったわたくしは、幼稚園の本棚に並べてあったヘレン・ケラーの自伝を手に取った。目も耳も不自由な身体での生活。想像するだけで恐ろしい。ではなぜわたくしは目が見えて、耳が聞こえているのだろう。ふとそんな疑問が浮かんだ。なぜ味がわかって、においがわかって、感触がわかるのだろう。なぜ考えることができるのだろう。なぜ生きているのだろう。なぜ存在しているのだろう。溢れ出す疑問が、恐怖の姿を確かなものに変えた。これは、存在することへの恐怖だ。

 

 

 

恐怖の根源を確信すると同時に、新たな疑念が芽生えた。存在することはこんなにも不可解で恐ろしいのに、なぜ周りの人間は恐怖を抱いていないのだろう。そしてこの疑念は、歪な形に変化した。恐怖を抱いていないということは、存在していないのではないか、と。その考えは驚くほどすんなりと心に馴染んだ。産まれ持った心に、ぴったりと嵌る感覚がした。しかし、それを信じたくないという気持ちもあった。なんとか間違いを証明できはしないかと、いろんな行動をした。小学校時代、妹やクラスメイトに物の見え方や音の聞こえ方の実験をした。どちらも成功したが結局他者の存在に対する不信感は拭えなかった。中学校時代、存在するということについて紙にまとめた。

 

 

(いにしえのスマホから2枚だけ発掘されました。何もインプットせず考えたことをただ羅列しているのでしっちゃかめっちゃかで論理が穴ぼこだらけですがご容赦ください。)

この紙を見せればわかってくれるかも、と期待しながら数人の先生に話をするも撃沈。変な顔をされたり的はずれな話をされたり散々だった。もう誰にもわかってもらえないんだ。そう思って高校時代は誰にも言わずに過ごした。哲学に出会い、ここに答えがあるかもしれないとたくさん本を読んだ。哲学をきっかけに片割れと出会い、一縷の望みをかけて存在への恐怖について話した。片割れは理解してくれた。共感はしてくれなかったけれど、本当に驚いた。そんな人今までいなかったから。ほんの少しだけ他者の存在を感じられるようになった。

 

 

 

今でも発狂は起こすし、周りの人間が生きていることをふとした瞬間に疑ってしまう。この恐怖は論理的に説明されても消えることはないだろう。産まれ持ったものなのだから。でもきっと生きているんだよね?だから信じてこの文章を公開します。たくさんの人が生きていてわたくしもその中の1人なのに「自分が世界を映している、ゆえに自分が世界だ」とか本気で言っちゃってるヤバいやつだってバカにしてください。それか治し方教えて。お願いします。

 

 

 

長々とお付き合いいただきありがとうございます。皆様のことNPCだと思っちゃうときもあるけど、関わることは大好きです。意味わかんねーよって言われても仕方ないですが怒らないで〜!炎上させないで〜!ということで、それではごきげんよう、人の角煮でした〜。

 

 

 

サークルクラッシュ同好会様のアドベントカレンダー12月15日担当

 

 

 

追記:これを書いている途中に新しい発見があったので次は「恐怖」に焦点を当てた文章を書こうと思っています。よかったら読んでね。

海を泳いでいる想像をする。夜の海。わたしの後ろから電灯が背中を照らし水面が揺らめき透けている。ラメのような小さい泡がわたしが手をかく度に生まれては消え生まれては消え息継ぎを繰り返していつの間にかわたしの身体は海に溶けてしまった。灰色の海の中をスライムのように形を変えながらあてもなく進んでゆく。わたしの端っこがパチパチと弾けながら海に霧散していく。途端にわたしは恐ろしくなって誰かの温もりを求め始める。誰かわたしを抱きしめて。貫いて。わたしの体はお風呂に入れた固形の入浴剤のようにぶくぶく音を立てて周りを濁らせていく。溶けきってしまったわたしの体の中から出てきたのは丸い意識の球体だった。表面はべとつき汚れが糸を引いている。冷えきった意識の球体は波に流されながら遠く遠く岸から離れていく。さみしくてわたしは涙をこぼし球体には水が溜まっていく。重くなった球体は海の底に沈んでいって砂の上にころんと転がる。身動きが取れない。何も見えない。聞こえない。誰かわたしを助けて。助けて。誰かがわたしを拾ってくれるのをずっと待っている。生まれた時からずっと。
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ODをするということ

ごきげんよう、人の角煮です。最近はめっきり寒くなって本格的な冬の到来を感じますね。それと共にメンタルが落ち込んでしまっている方も多いのではないでしょうか?増える腕の傷、血のついたティッシュ、散らばる薬の殻、転がるブロンの瓶……。そんな光景が目に浮かびます。

 

前置きはさておき、今日はオーバードーズ(overdose、以下OD)のお話をしたいと思います。ODとはメンヘラの皆様なら知っての通り、薬を多量に服用し、何らかの効果を得ることです。わたくしは、最近になってODに手を出し始め、今ハマりつつあります。

 

初めてブロン錠を飲んだときの脳味噌の違和感は強烈でした。脳味噌の溝に細かいビーズがはまってうじゃうじゃと転がっているようなそれはそれは気持ちの悪い感覚でした。しかし2度目3度目と繰り返すうちにその感覚が癖になっている自分に気づきました。わたくしは中途半端に頭が良く、それに対して大変コンプレックスを抱いていたので、脳が蝕まれていくような感覚を実感できることはコンプレックスの解消に繋がりました。頭の良さという自分の唯一のアイデンティティがぼろぼろと崩れていくことでわたくしが霧散していくような、自由になっていくような気がしたのです。

 

今ではもはやODが日課になってしまっています。わたくしの肝臓は悲鳴をあげていますが気にしません。脳が擦り切れるまで、わたくしの存在価値がなくなるまで、わたくしが朗らかな気持ちで毎日を過ごせるようになるまで、ODをやめることはないでしょう。これがわたくしのODをする理由です。

 

死という選択に踏み切れないあなた、少しでも生き辛さを和らげるためにODという手段があることを忘れないでください。ほんの少しでも満足のいく人生を送りたいという気持ちがあるのなら生き辛さを誤魔化しながら一緒に生きていきましょう。

今日はこのへんで終わりにしたいと思います。それでは皆様、よい終末を〜!

 

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人の角煮-Wikipedia

人の角煮(ひとのかくに、2001年7月3日-)は、日本で活動している日系日本人のメンヘラツイッタラー、自称メンヘラシェルター、みんなのトランキライザー。本名:■■■■(■■■■■■)。Twitter高校中退部所属。

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■■県■■市出身。■■■■■■高等学校中途退学。身長161cm、体重45kg。血液型はB型。一人称はわたくし。

 

人物

中学2年生のとき、リストカットで深く切りすぎた(深さ1.5cm、長さ5cm)ため、救急車で搬送される。ダサい服装で運ばれたので、縫ってもらった医者に「競輪選手みたいな服だね」と馬鹿にされた経験がある。

リストカットのときによく聞く曲はゆるめるモ!のOnly You。

高校三年生の10月3日にTwitterアカウントを作成。

11月17日に初めて市販薬ODをするが失敗。その後から市販薬に手を出し始める。

11月後半に高校の先生から留年宣告を受ける。転学をして単位を取るか退学して高校卒業認定試験を受けるかという2つの選択に迫られ後者を選択。11月末に高校を中途退学する。

中退してからバイトの面接を何個か受け、12月12日からカラオケ店でバイト開始。2日目にパニックになりバイト欠勤。3日目のバイトで初めて運んだビールを客にぶっかけ、ジョッキを5個以上割り、廊下を水浸しにする。しかし罪悪感は全くなく反省もしていない。

絵を描くことが好きで、Twitterのアイコンも自分で描いている。人に頼まれアイコンを描いた経験もある。基本はアナログだがたまにデジタルも描く。漫画も描いているが公開したことはない。

アコギとエレキを1本ずつ持っているがコード弾きしかできない。作詞作曲をすることもある。

メンヘラを救いたいという気持ちがあり、メンヘラの避難所を作りたいと思っている。

 

外部リンク

Twitter - https://twitter.com/hitonokakuni

note - https://note.com/hitonokakuni

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